〈王の知恵〉のマルジナリア / 試し読み

 それはわたくしが知る限り、もっともひどい嵐の夜のこと。

 嵐の日のご多分に漏れず、帝立図書館の本はみな、はじめの雫が落ちる前から恐れおののいておりました。そんな弟たちの背をひとつひとつ撫でてやりながら、本たちの長兄はそっと溜息をこぼします。

 帝立図書館の本どもの長兄は、その名を〈王の知恵〉と申しました。
 装幀の革は稀少な貝染の深青で、表題がわりに吟面を彩るのが純銀の箔。その姿は瑰麗を地でゆくものございましたけれど、彼にはもうひとつばかり、見目麗しい姿がございました。箔と同じ色の瞳と、貝染の青の髪を持った、若い男の姿です。
 彼は帝立図書館のもっとも古い本であると同時に、このあたりの砂漠一体でもっとも古い魔術書であり、古くより棲まう魔神でもございました。

 砂漠に吹き荒れる毒の風から生まれてこの方、歩んできた歴史も長いものですから、彼にはそれこそ山のように多くの異名がございます。

 ですが、わたくしはこれより、博学多識の魔術書にして、冠前絶後のまじないの使い手であった彼についてだけを綴ろうと思っています。ですから彼の名は〈王の知恵〉とだけ綴ることをお許しください。

 ――それでは話を戻します。

 この〈王の知恵〉が弟たちを宥める仕事を終えたのは、いよいよ雨の雫が図書館のタイル壁を叩き始めたころでした。おやと思ったのもつかの間、閲覧室の天上の眼窓は一瞬にして雨に濡れ、絨毯の上には複雑な陰影が落ちてきます。
 閲覧室の四方を囲う書架の本は、ここに来てしんと静まり返っておりました。読者諸賢はご存じないかもしれませんが、魔神ならざるただの本たちにも、疲れというものはあるのです。この図書館で疲れを知らぬのは、無尽の体力を持つ魔神である〈王の知恵〉だけです。彼は本格的な嵐の到来に際し、精力的に図書館じゅうを見回ることを決めました。

 この図書館に納められた本たちは、いかに新しくとも、たいへんな叡知の詰まった宝物でございます。そんな弟たちを守護することは、長兄たる〈王の知恵〉の大切な仕事であると同時に、彼の生き甲斐でもありました。そういった意味において、この図書館はあまねく本のための砦でもあったわけです。

 白い漆喰と青いタイルから成る壁、ガラスと金枠を嵌めた窓、天井を占める銀彩と青金石によって幾何学模様を描かれた鍾乳石飾り――華美を究めた図書館のありとあらゆる構成物には、魔神自身が手がけた護りの呪いがかかっています。そのすべてが盤石であることをたしかめながら、魔神の足取りはいよいよ図書館の玄関へと辿り着きました。

 そこにいたって〈王の知恵〉は銀の目を細めます。ぎいぎいと耳障りな軋みを耳にしたからです。砂漠では幼子でさえ知っていることですが、魔神とは往々にして、人よりもあらゆる面で優れた存在です。人のまじない師ならいざ知らず、魔神である〈王の知恵〉のまじないに綻びなどあろうずもありません。実際、螺鈿細工の扉は暴風を受けてなお撓みもせず、すきまに染み入る雨はなく、蝶番や鍵には赤錆のひとつもございませんでした。

 しかしながら、魔神である〈王の知恵〉の耳が聞き違いをするはずもございません。
 ですので彼は柳眉を寄せ、苛立ちめいた表情まで作ってから、久方ぶりに図書館の扉を開くことにしたのです。これがかれこれ数十年ぶりのことと申しましたら、今宵の雨風がいかほどであったかについては、紙面を割くまでもないでしょう。

 こうして久方ぶりに大扉を開かれた帝立図書館は、海の只中に浮かぶ島の上に、ただひとつぽつねんと建っておりました。
 ひとたび嵐が訪えば、たちまち荒波が玄関まで押し寄せる、そんな島の上に、です。
 けれども図書館は魔神である〈王の知恵〉のねぐらですから、時化の海の貪婪を以てしても、なにかを毀損されることはありません。牙を剥く灰色の波頭さえも、図書館から眺める限りはかわいいものです。

 にもかかわらず、このときの〈王の知恵〉は細めていた銀の目を見開いて、たしかな驚嘆を示しました。

 小島を成す岩を平らげ、図書館の土台のまぎわまで迫り来た大波が、ひどく丁重に荷物を運んできていたからです。
 先刻からぎいぎいと喚き立てていたものの正体は、どうやらこの荷物のようでした。

 嵐が図書館から奪うものはひとつとてございませんが、嵐が図書館へ運んで来る荷物は多々あります。従って荷物自体はさして珍しくもないのですが、こうして喚き立てられるほど元気な荷物はめずらかです。

 大抵の荷は波間に揉まれるあいだに姿容を失い、ただの瓦礫か塵屑として図書館へ届けられます。届けるつもりがあったのかどうかも微妙なのが常でした。
 それに引き換え、この日の荷物はどうでしょう。
 多少の傷はありますが、ほかと比べればましなものです。
 少なくともその形は保たれ、喚き立てるだけの元気もある――
 ていねいに均された船縁をそうとなぞり、魔神は吐息を漏らしました。

「船主からはぐれてしまったのですか。憐れな話ですね」

 彼自身は犢皮紙仕立ての本なのですが、彼の弟には植物紙から作られた本も少なからず存在します。おかげで彼には、この小舟がただの他人には思えませんでした。人で例えるならば腹違いの弟の、母方の親戚のようなものと感ぜられたのです。
 ですから、このときの彼が抱いた憐憫は、紛うことなきほんものでした。
 魔神はひとたび銀無垢の色の目を伏せますと、

「嵐が行き過ぎたましたら、都に返してさしあげましょう。せめてなきがらだけでもおまえの主人の許へゆけるように」

 と優しい声色で告げたのです。

 そうして持ちあがった〈王の知恵〉の瞳には、嵐の雨風の帳を透かし、海の向こうが見えておりました。そこには雨露に濡れた白い都の姿がございます。輝かしきその名をスィン・アル・フィル――古くは砂漠の宝珠とまで頌えられた、皇帝の御座す都です。

 普段は活気に満ち溢れているはずのスィン・アル・フィルですが、今宵の嵐とあっては市街に繰り出す者の姿はありません。沿岸の湊については見るまでもない話です。
この小舟の主人もまた家のなかに籠もり、己の憐れな舟の無事を祈っているに違いありません。なればこそ、骸であっても返してやるのが慈悲というもの。このときの〈王の知恵〉はそのように考えを巡らせました。

 彼の頁に書いてある人の心の動きとは、得てしてそういうものでしたからね。
 けれどもしかし、小舟のほうはどうでしょう。
 軋みの底に潜ませるようにして、舟は「いいえ」と言いました。
 そのあまりにはっきりとした拒絶の言葉に、魔神は銀色の目を見開きます。ですが、ほんとうに驚く必要はございませんでした。よくよく舟のなかを窺い見れば、そこには油紙と布とで包まれた、動く荷物が載っていたのです。声をあげたのはそれでした。動く荷物である以上、ものを喋ることになんの不思議がありましょう。

 〈王の知恵〉は息を呑み、荷物にかかっていた包みを引き剥がしました。にわかになかから転び出て来たのは、濡れ鼠になった女がひとり。
 もはや喋ることについては一片の不思議もありません。
 女は雨に濡れた身体を震わせ、

「どうかわたくしを都へは返さないでくださいませ」

 と縋るような声で申しました。
 幸か不幸か、彼女には失われた四肢もなく、目立った傷もありません。それでも夜の寒さは堪えると見えて、その唇から漏れる声は絶え絶えとしたものです。もしも人の耳であれば、亡霊の吐息と聞き間違えて、端から無視を決め込むことさえあったでしょう。

 しかしながら〈王の知恵〉は魔神の一柱。彼の耳へと届かぬ言葉はありません。彼は億劫そうに片眉を持ちあげると、親猫が子猫にやるように、柔らかな所作で女のスカーフの首許をつかんみあげました。
 そのまま〈王の知恵〉は女を閲覧室へと連れてゆきます。もうとっぷり寝入ってしまったと見えて、弟たちはなにも申しませんでした。
 〈王の知恵〉は表情を緩めると、閲覧室の絨毯の上に魔法の炎を灯しました。これを点けると弟たちがなにくれとうるさいのですが、彼らが眠っているなら話は別です。よしんば弟たちが起きていたとしても、このときの〈王の知恵〉はけっして躊躇はしなかったでしょう。彼にとって、人を――読者を護ることは、矜持のひとつでありましたから。

「本は読まれるものですから、本もまた読む者には親切にするものです」

 魔神はすらすらと言ってのけると、胡座を組んで座り込みます。対する女はしばし押し黙っておりましたが、やがて意を決したように靴を脱ぎ、自分もまた絨毯の上に胡座を組みました。
 そうして真正面から向き合ってはじめて、魔神は彼女の腹が膨らんでいることに気づきます。身重なのです。その腹の前で手を組んだ女の仕草は、あらゆる災厄から己の子を守らんとする、慈悲深い母親のものに相違ありません。

「貴方はこの図書館の主でいらっしゃる?」

 魔神がうべなって応じると、女は深々と息を吐きました。
 ついで彼女は対面に座す〈王の知恵〉に向け、己の身の上を語り出したのです。
 みずからがさる貴い方の側室であること、正室より出産を許されなかったこと、差し向けられた凶手より命からがら逃げ出したこと、胡乱な連中に追い回される羽目になったこと――細々とした言葉を連ねたのちに、女はかすかに身体を前に倒しました。
 どうやら礼のつもりのようですが、この動作が腹の子どもに障るのも恐ろしい――そういう逡巡が垣間見える仕草です。

 女の逡巡を見出す刹那まで、銀の目の魔神はごく静かにうなずきながら、言葉のすべてを聞いておりました。彼は元より書物の魔神ですから、綴り手の筆跡のかわりに語り部の声を待ち続けることが、けっして苦ではなかったのです。

 やがて〈王の知恵〉は長々とした溜息をこぼし、

「顔をおあげなさい」

 と申しました。

 ですが、女が魔神の言葉に従うことはありません。
 色を失った指先が震えるのを認めて、魔神はふたたび溜息をつきました。

「この図書館のあるじの意は諸王の総意である、と伺いました。ならば広大な砂漠を治める王のなかの王の慈悲によって、どうかこの子を救っていただきたいのです」

 その音を意に介するでもなく、女はやけによく通る声で申しました。
 彼女が申しますとおり、魔術書たる〈王の知恵〉は古くよりこの地で王のなかの王の治世を支えて来た、たぐい希なる叡知の書です。その頁に綴られた文面には、諸王が借り賃として納めてきた知識も多く含まれます。それをして、図書館の魔神には「諸王と同じだけ慈悲深い者」として語られる側面もございました。

 砂漠のあまねくをその威光で照らす皇帝ならば、たしかにこの憐れな女を見捨てることなどいたしませんでしょう。ですが〈王の知恵〉はあくまでも〈王の知恵〉――皇帝そのものではないのです。彼はわずかに口の端を歪めると、

「わたしは人を助けることもありますが、けっして皇帝のように善良なばかりの者ではありません。わたしの本質はあくまでも知識を蓄える怪物です」

 と言いました。
 応じるように女はようやっと顔をあげます。

「それも存じております」

 ここにいたって、魔神は彼女の目が黒色であることに気がつきました。黒髪黒目が常であるスィン・アル・フィルにも珍しい、夜のような漆黒です。そこにぎらつく強い光は、たちまち魔神の二の句を断ち切りました。紙を裁つ刃にも似た、あまりに凶暴な光であったからです。

「貴方様のお力を借りた者のなかには、死毒を呷る苦しみを譚った皇弟や、獣に腸を食われる痛みを綴った女帝もおられたと聞きます。……わたくしが差し出せる知識なら、なんでも差し出す覚悟で参りました」

「実に愚かな話です」

 〈王の知恵〉は首を竦め、高い位置にある眼窓を仰ぎました。
 ガラスの上を滑る水は嵩を増し、図書館そのものが水に没したかと錯覚するほどです。

 とはいえ、雨雲には必ず限りがあります。それを思って見るに、この嵐の寿命はもう長くはなさそうでした。

「わたしは苦痛ばかりを綴りたいわけではないのです。ですから、貴女の言うような対価はたいへんによろしくない」

 言って魔神は腕を組みます。
 なんでも、と言って差し出される知識には、ろくな覚えがなかったからです。

「嵐が行き過ぎたら都へお帰りなさい。ここでわたしなどに縋るよりも、人の手から逃れる術を講じるほうが、まだ現実が見えている」

 せりあがる嫌悪を堪えてそう続けると、歯を軋らせる音が聞こえました。
 魔神はそこに被せるように、さらにと言葉を重ねます。

「幸いにして、わたしの弟にはそういう手管に詳しい者もおります。それくらいの知識であれば、無償で知恵をお貸しすることも吝かではありません」

 女はうなずきませんでした。魔神がいかなる言葉をかけようと、けっして。
 ただしっかりと唇を噛み、強く強く頭を振る――ただそれだけが彼女の所作のほとんどすべてです。たまさか口を開いたかと思えば、それ如きで足るならこんな場所へは参りませんと繰り返す始末。どうやら彼女の意は硬く、聡明なる〈王の知恵〉にも翻意を促す言葉は綴られていないようでした。人の女と書物の魔神、ふたりが言葉を重ねるごとに、外の嵐は力を失ってゆくばかり。

 

 やがて眼窓から月の光が降り始める段になって、女はようやく観念したようでした。
 けぶる睫と宵空の色の目を伏せた彼女は、

「わかりました」

 と言ったのです。
 魔神はすっかり安堵して、白いかんばせに笑みを浮かべました。

「顔をおあげなさい」

 彼がそう申しましたところ、女は素直に従いました。
 けれどもしかし、どうでしょう。彼女の痩せたおもてにあるのは諦念ではなく、妄執にも似た固い決意の色でございました。
 そうして彼女はただひとこと、はっきりとした声で言ったのです。

「わたくしは諦めます」

 魔神は驚いて閲覧室を見渡しました。

 まやかしの炎が照し出すなか、見えるものはさきほどから寸分も変わっておりません。
 書架のなかの弟たちを除き、目の前の女を除き、それから〈王の知恵〉自身の存在をも除いてしまえば、生き物の気配はひとつもないはずです。
 彼女以外に果たしてなにが諦めずにいるものか――そういう疑問を読んだように、女はそっと腹の膨らみを撫でました。

「この子はわたくしではありません。ですからけっして諦めません。この世に生まれ出ずることが叶いましたら、貴方様はこの子を望んだようにお育てになり、望むとおりの対価を得られるようになさいませ」

「わたしが望んだとおりの知識」

 〈王の知恵〉は彫像めいて整った顎を撫で、ふむ、と声をあげました。
 ――彼には知識よりほかに望む対価などなかったのですが、望む知識があるわけではございませんでした。ですので彼はこのときこの瞬間、あるはずもない己の望みを知りたいと考えたのです。

「よろしい」

 ですから彼は明るい声で是を唱えました。

「王の知恵、皇帝より帝立図書館を預かるこのわたしが、この地をその子の産屋とすることを許します」

 続く言葉を掻き消すように、びょうと強い風の音がいたしました。
 それが、最後。
 船の底が立てる軋みも、残滓のような雨垂の音も、叫び声のようにがなる風も、嵐にまつわるすべてがそれきりでした。

 すっかり夜の明けたのち、ふたたび図書館の外へと現れた〈王の知恵〉は、その細腕にひとりの女の嬰児を抱えておりました。

「最後なのだから、おまえの母上にお別れをお言い」

 舫いのない舟の縁に手を乗せ、魔神は赤子へ語りかけます。
 けれども赤子はただの赤子ですから、その言葉に応じることはありませんでした。
 〈王の知恵〉は肩をすくめて、

「後悔しても知りませんよ」

 と言葉を重ねました。
 もちろん、赤子は答えません。
 〈王の知恵〉はひとたび銀色の目を瞑ると、魔神としての力のすべてで、壊れかけの舟を押しました。

 島から離れてゆく舟のなかには、ひとりの黒髪の女が眠っています。もはやこの世のいかなる苦しみを知ることもなく、安らかな永い眠りについた女です。

 彼女を乗せた舟が沖へと去った後、魔神は腕に抱いた嬰児の顔を覗き込みました。しわくちゃの顔には女の面影はなく、それどころか人のようにも見ません。
 どうか無事に人らしく育ちますようにと願いながら、魔神は長らく赤子の顔と海とを眺めておりました。

 ――以上が〈王の知恵〉がみずからの願いを叶える宝物を手に入れ、名無しの嬰児が世にも珍しい養い親を得るまでの顛末です。
ひどい嵐は何処かへ消え失せ、燦々と陽の煌めく朝のこと。わたくしが語る物語は、ここから幕を開きます。

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